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2008-11-29
「マスコミの果たした役割」 最初にお断わりをしたいと思います。実は先週からこの連載は私、笹田が新たに作りましたブログにリンクしています。これを機会にこれまでの連載記事を見直し、タイトルを変えることにいたしました。新しいタイトルは「昭和ラプソディ〜笹爺の日本語の旅〜」です。 続きを読む
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ジャンル : 学問・文化・芸術
2008-11-21
川柳から見た変わらぬ世相 ところで今日は「にやっ」とする歌です。
いまも多くの新聞に川柳の投稿欄が常設されているように、川柳を愛好する人たちは沢山います。5・7・5の短い詩形の中に、笑いや鋭い社会時評を含めた川柳は、読んでいて思わず「ニヤリ」とさせられます。
有名のものでは第一生命が毎年行なっている「サラリーマン川柳」。例えば
年金は いらない人が 制度きめ
脳年齢 年金すでに もらえます
デジカメの 餌は何だと 孫に聞く
家族との 会話のつもりが 独り言
新製品 使わぬ機能が てんこもり
夢に見た 年金生活 今悪夢
など、いずれも身につまされる思いの句が並び、思わず拍手を贈りたくなります。
この第一生命の「サラリーマン川柳」は、すでに私たちの生活の中に年中行事として定着し、毎年多数の応募があるといいます。それだけ多くの人に親しまれ、好まれているのでしょう。
そう言えば最近の同社の川柳をネットで見と
チルドレン 選挙のたびに 親変わる
というのや、
日替わりの 謝罪会見 今日はどこ
なんていう句もありました。何とも鋭い感性です。
口語が主体であり、季語や切れ字など、俳句に見られる制限もない自由さも、多くの人に愛される理由かもしれません。
ところでこの川柳の発祥は江戸時代の柄井川柳(からいせんりゅう。1718〜90)という人が『誹風柳多留』(明和2年。1765年)を刊行し、盛んになったことから、「川柳」という名前で呼ばれるようになりました。この時代の『柳多留』の序文の筆者や評者には、十返舎一九や葛飾北斎などの名前が見られます。
「うがち・おかしみ・かるみ」という三要素を主な特徴とし、人情の機微や心の動きを書いた句が多く詠まれました。その後も『誹風柳多留』は毎年刊行され、幕末まで167編を数えています。
寛政や天保の改革などでは政治批判、博打、好色といったものを詠んだ句が、風俗を乱すなどさまざまな理由を付けて削除されており、それだけ権力者にとって目障りな存在だったのでしよう。
では、川柳の古典と言われる『俳風柳多留』から、現代でも通じる幾つかの句をご紹介しましょう。
初物が来ると 持仏が ちんと鳴り
私の知人の女性は「昔からの習慣で」と、いまでも到来物や初物は仏壇に供えてから食べるそうです。
唐紙へ 母の意見を たてつける
いまは「唐紙」ではなく「ドア」でしょうか。もっとも、大きな音を立ててドアを閉めるなど可愛い方。最近は命の危険も……。ただ、子どもだけでなく女房も怒らせると命の危険に見舞われます。
かんざしも 逆手に持てば おそろしい
と、いうことです。
子ができて 川の字なりに 寝る夫婦
この風景はもうほとんど無くなりました。川の字どころか、夫婦別室も当たり前。少し淋しい?
国の母 生れた文を 抱き歩き
孫は子よりも可愛いのはいつの時代も同じ。いまのようにすぐには飛んで行けません。誕生を知らせる手紙を抱いてうろうろと。この川柳は実感
これ小判 たった一晩 いてくれろ
経済崩壊です!だがこれは亭主だけの願いかも知れません。嫁さんの方はというと
どっからか 出して女房は 帯を買い
ということです。今は帯がダイヤに替わっています。
寝ていても 団扇の動く 親心
これは今でもそうでしょう。もっとも最近は空調機がその役目。こんなところにも親子の隔絶の原因?それでも、親は子のことが気にかかります。したがって
母親は もったいないが だましよい
となり、だから「振り込め詐欺」が絶えません。
こうして並べてみると、人間の生活感情はいつの時代にも変わらないなぁと改めて思います。
庶民の生活感覚が変わらないように、これも江戸時代から現代まで、一貫して変わらないのが官僚、つまりお役人です。
神代にも だます工面は 酒がいり
これはご承知の天岩戸の神話伝説。そして
役人の 骨っぽいのは 猪牙に乗せ
となります。この猪牙(ちょき)というのは、吉原遊廓へ通う船のことです。「飲ませて、抱かせ」たら次は「握らせる」となります
役人の 子はにぎにぎを 能く覚え
いかがですか。まさに日本の役人は変わらない、歴史は常に繰り返す、ということでしょう。
<追記>
この回までがこれまでジャーナリスト・ネット紙に掲載された連載の再録に当たる。次回の二十六回からは毎週土曜日のアップになる。
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2008-11-20
再び古今集から
先々週、連載の22回では古今和歌集から小倉百人一首に採用されている和歌を三首ご紹介しました。今週はその続きで、古今集「秋の巻」から百人一首に採られている残りの和歌をご紹介します。
まず最初は第五巻、秋の下277番に収録されています凡河内躬恒(おうしこうちみつね)の歌。百人一首では29番です。
心あてに 折らばや折らん 初霜の
置きまどわせる 白菊の花
ごく一般的な解釈では「一面に初霜がおりてどこに白菊があるのか霜に紛れてわからなくなってしまった。当て推量でためしにどれかを手折ってみようか」という意味だとされています。
作者の凡河内躬恒は平安時代の歌人。
『歌よみに与ふる書』で正岡子規が「駄歌・嘘の趣向」と古今集非難の矢面にした歌がこの歌です。子規は、「霜と白菊を間違えるはずがない、下らない理屈の歌だ」といいます。しかし白菊と初霜を対比させるのは漢詩的表現の一つであり、当時の歌人にとっては基礎的教養の一つだったはず。そのことを念頭に考えると、子規の批判は的外れでしかありません。
なお、この凡河内躬恒が同じように初霜を詠んだ和歌が古今集にあと二つ、合計で三首あります。この三首を並べて考えると、ここで読まれた初霜は、菊の葉の上に降りた初霜がつくりあげた氷の造形を菊の花に喩えて、どちらを花とみて折ろうか、という思いを感じるべきかも知れません。
凡河内躬恒の経歴については詳細は伝わっていませんが、『古今集』の選者にも選ばれている歌人で古今和歌集には紀貫之の九十九首に次ぐ六十首が選ばれており、三十六歌仙の一人にも挙げられる歌人です。
次は古今集巻の五、294番目に記載されている在原業平の歌、百人一首では17番目に記載されている歌です。
ちはやぶる 神世もきかず 竜田川
からくれないに 水くくるとは
人の世はもちろん、神世の時代にもこんな美しさがあったとは聞いたことがない。龍田川を流れる水が、紅葉の紅によって唐衣のように括り染めになっている、というのが解釈です。
ちはやぶるというのは「神」の枕詞。神世は神が地上を支配していた時代、そんな太古の時代でも聴いた事がない、という表現で、魅惑的な情景への驚きを表現しています。その景色というのは、唐紅、つまり大陸から渡来してきた美しい深紅色に彩られた布にも似た紅の紅葉のこと。
実はこの和歌の解釈が分かれるのは、その次の言葉。「水くくる」と読むのか、「水くぐる」と濁点を付けて読むのかによります。水くくる、だと「水を括って括り染め」にする美を意味するし、「水潜る」と濁音にすると、水面に一杯の紅の紅葉葉の下を水が流れる美を詠んだことになります。現在ではは「水くくる」と読むのが一般的です。
「括り染め」とは布を染める時に所々を糸でくくって、その部分を別の色の模様になるようにする染め方のこと。
古今集ではこの歌の前に、素性法師の歌が載せられ、二つの和歌の前書きとして、「二条の后の屏風に竜田川に紅葉の流れた様が描かれているのを題材にして」とあります。
清和天皇の女御であった「二条の后」という女性は、在原業平とは訳ありの女性として知られており、その情事を背景にして詠むと、また別の解釈も成立するようです。美男子の代表のようにいわれる在原業平についてはいずれ別の機会にご紹介するつもりですのでここでは触れないでおきましょう。
次の歌は春道列樹(はるみちのつらき)という人の和歌で
山川(やまがわ)に 風のかけたる しがらみは
流れもあえぬ 紅葉なりけり
という和歌。古今集では巻五の303番に載せられており百人一首では32番に載せられています。
この歌の題に「志賀の山越えにてよめる」とあるように京都の北白川から比叡を通って大津の北にあった崇福寺に抜ける道で出会った風景を謳った和歌です。
「人里はなれた山中の谷川に、綺麗な柵(しがらみ・水の流れをせき止める堰)があった。こんな山の中にいったい誰がこんな見事な堰・柵をこしらえたのかと近づいてみると、それは風に吹かれて集まり、流れることもできないままとどまっている紅葉だ。」という歌。
冒頭の部分は山川と書いて「やまがわ」と読みます。「やまかわ」ではありません。「やまかわ」と読むと「山」と「川」の意味になってしまい別々のものになり、歌の解釈も違ってきます。つまり読み方一つで意味が違ってくる例の一つです。
また、いま説明したように、この歌は滋賀への山越えの道で詠んだとされていますが、この「志賀」と「柵(しがらみ)」の「しが」を掛け詞にしています。先々週も述べましたが、古今集の歌にはこんな言葉の遊びが随所にちりばめられています。正岡子規はこんな言葉遊びが嫌いだったのでしょうが、日本語の美しさを考えるときには、この言葉遊びも大きな要素だと私は思っています。
万葉の心に沁みる歌も好きですが、古今・新古今の言葉を巧に操った歌も、私は好きです。
春道列樹という人については平安中期の歌人で、延喜20年・920年に壱岐守に任命されたものの赴任する前に死亡したということのほか経歴等は全く判っていません。歌は古今和歌集に三首、後撰和歌集に二首が残されています。
以上の三首を加えて合計六首。実はこのほかにも古今集から小倉百人一首に採られ、秋の歌に分類されるものが二首あるのですが、この二つは古今集の分類では「覊旅」つまり旅の歌と「恋の歌」の部に入れられています。
ここでは、歌だけをご紹介しておきます。
覊旅、つまり旅の歌に入っているのが、菅家、菅原道真が詠んだ
このたびは ぬさもとりあえず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに
もう一首は恋の歌の部にある素性法師の和歌で
今こんと いひしばかりに 長月の
有明の月を 待ちいでつるかな
の二首です。菅原道真や素性法師についてはまた触れる機会があると思います。
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2008-11-19
「国を守る」とは?井上中尉夫人自刃事件
皆さんは1931年、昭和6年に大阪で起きた「井上中尉夫人自刃事件」というのをご存知だろうか。学校の歴史の教科書にはまず掲載されないし、ほとんどの年表にも載っていない。現代史を専門に勉強でもしない限りは、まず知ることはないだろう。こんなことには比較的興味を持つ方だと思っている私も、新聞で読むまで実は知らなかった。
この事件については作家の澤地久枝さんが『昭和のおんな』という著書の中で「井上中尉夫人”死の餞別”」という題で書いておられるのだが、私はそのことも知らなかった。
日本の侵略戦争について関心をお持ちの方は、1932年、昭和7年に中国の遼寧省、撫順炭坑で起きた平頂山事件についてはご承知の方も多いと思う。私も伝えられる事件の概要については知っていたものの、この事件の中で主要な役割を演じたとされる井上中尉については、名前を記憶している程度に過ぎない。
事実、図書館で新聞のマイクロフィルムを見ていて、「井上中尉夫人自刃事件」を伝える記事を眼にしたときも、強い衝撃を受けたものの、平頂山事件の井上中尉と結びつけることは出来なかった。
実はこの「自刃事件」は、この翌年、大阪で結成される「国防婦人会」の誕生と結びつくことになる。
昭和6年12月14日(月)の朝日新聞から関連記事の見出しをご紹介する。
「渡満の井上中尉夫人 紋服姿で端然自刃す 『死んで皆様をお守りします』と 健げな遺書を残して」 「悲壮な心を抱いて出発した 雄々しい井上中尉 夫人は昨年結婚した才媛」 「褒めてやってくれ 井上中尉語る」 「頭が下がる出征美談だ 喜多連隊長談」 「『武人の妻』立派なその遺書」 「祖母は語る」 「15日告別式 連隊将校団葬」
記事の数は7本。社会面の8段を使って報じている。
実はこの日の社会面のトップ記事は、この井上中尉が所属する師団が大阪を出発する記事で、見出しは四段抜き。
「山野凍る満州へ 万歳声裡に出発 烈風中を本社機(朝日新聞社)の歓送飛行 巷と駅頭の素晴らしい歓送 第四師団出動部隊」
とある。
この自刃事件は映画にもなったし、見出しにもあるように「武人の妻の鑑」としてもてはやされた。ネットで調べてもこの事件に関する記事は比較的簡単にみつけることができるし、自害した井上千代子と言う女性の遺書も、読むことが出来るので、ここではこの事件を報じた記事の中から他の資料ではあまり引用されていない井上中尉が所属する師団の連隊長談話を紹介しておこう。記事の見出しには「頭が下がる出征美談だ 喜多連隊長談」とある。
「井上中尉夫人の死は実に立派なもので婦人の亀鑑である。軍人の妻として出征の夫をして後顧の憂ひなからしめるためこの挙に出た夫人の心中は察するにあまりあるもので、鬼神も泣くであらう。まことに今事変第一の出征美談で、その昔木村重成が決死の出陣に際し、その妻が自刃した美談とあはせ考ふるとまことに恐縮ですが感銘深くおのづから夫人の霊に頭が下がる。しかも井上中尉も後事の整理を依頼し一死をもって君国に報ずる覚悟を披瀝して決然として出発した。その心情をくむとき、われらはいふべき言葉もない」
こんな談話が、当然のこととして報道される時代。なぜかいまの自民党総裁で首相の麻生太郎の顔がちらついてならない。
この事件は、例えば翌昭和7年3月19日の朝日が報じた
「出征した愛人を 激励して自殺 『三勇士の様に戦ってくれ』 遺書を残して線路に飛込む」
という記事に見られるように、その後もさまざまに波及する。
「国を守る」という大義名分に踊らされる命。自衛隊は、「国」の「何」を「守ろう」とするのだろう。「昔はこんなことがあった」ではすまされない記事の一つだ。
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2008-11-18
古今集に見る「遊び心」
日ごとに秋が深まってゆきます。日本人のDNAの中には、秋に対する何か特殊感情のようなものが植え込まれているのでしょうか。秋、というとほかの季節への思いとは違う何かが働くような気がしますが、皆さんはいかがでしょうか。
和歌や俳句の世界は、季節の変化に敏感に反応します。ことに秋という季節は歌心を刺戟するようです。
先週は小林一茶の俳句から秋を詠んだものをご紹介しましたが、今週は秋を主題とした和歌をご紹介してみようと思います。
ご紹介するのは古今和歌集に収録されている秋の歌。古今集の秋の歌は巻の四・巻の五の二巻に分かれ、多くの歌が収録されています。夏と冬がそれぞれ一巻なのに、春と秋は二巻づつだということも、この季節への関心の高さを伺わせます。
今日は皆さんにも多分お馴染みの歌を集めてみました。古今集の中から百人一首に選ばれている和歌です。
小倉百人一首は、平安末期から鎌倉時代初期に活躍し、歌道の家としての藤原家を確立した定家が、上代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人のすぐれた歌を選んでまとめたもので、男性が79人、女性が21人選ばれ、今はカルタ取りゲームとして使われますが、長く歌道の入門書的な扱いをされていました。この定家に連なるのが、京都の冷泉家だということはご承知の通り。同家に所蔵されている古文書で、いま復刻が進められている『冷泉家時雨亭叢書』(朝日新聞社刊)には、古今和歌集(嘉禄二年本・貞応二年本)はもとより定家の日記である『明月記』をはじめとする貴重な資料が数多く含まれています。
ところでこの小倉百人一首に最も多く選ばれているのが古今和歌集に納められた和歌で、全部で二十一首。次いで多いのが新古今和歌集の十五首、千載和歌集の十五首など。
実はこの百人一首には季節の歌としては「春の歌」が六首、「夏の歌」が四首、「冬の歌」が六首あるのですが、それに対して「秋の歌」は十七首。圧倒的に秋の歌が多いというのも、先ほども言いましたように、この季節が昔から歌詠みにとっては最も心を動かされる季節だからでしょう。
そして百人一首に収められた十七首の秋の歌のうち八首が古今集の歌。ここでも古今集から選ばれたものが多く、そのほか新古今から四首のほか後拾遺集などからも選ばれています。
では古今集から百人一首に選ばれた歌です。
百人一首に登場する古今集収録の和歌の最初は、大江千里という人の和歌
月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど
で、秋の歌の上、古今集で193番の歌です。小倉百人一首では23番になります。
特に意味が難しい歌ではあません。月を見ているとさまざまの悲しい思いがつのってくる。何も自分一人の秋ではないのに、というのが普通の解釈。「月見ればちぢに」のちぢ(千々)と「わが身一つ」の一つを対比させた歌です。古今集の歌にはこのような技巧を凝らした和歌が多くなってきます。この辺も万葉集との違いです。
ところでこの大江千里という人、生没年は不詳ですが、官位を初めて得たのは西暦883年と伝えられており、宇多天皇の頃の人です。学問を好み博学であり、和歌にも漢学にも秀でていましたが、出世とは縁遠く生涯を通じ不遇でした。彼の子孫には幕末に活躍した桂小五郎がいると指摘する資料もあるようです。
その次に登場するのが同じく秋の歌上の215番の歌。小倉百人一首では5番目の歌。古今集では「読み人知らず」、つまり誰の歌かは不明となっていますが、百人一首では「猿丸太夫」となっています。
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞くときぞ 秋は悲しき
これを詠んだとされる猿丸太夫という人は実は経歴が全く解りません。何年か前に哲学者の梅原猛さんが猿丸太夫と柿本人麻呂が同一人物だという論を発表して注目されました。とにかく謎の人物。
この歌は昔から「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の」という部分の解釈をめぐって論議の的になってきた歌です。紅葉を踏み分けて奥山に入ったのは、人なのか鹿なのか、という議論です。皆さんはどちらだと思いますか。
もう一つ、余分な雑学ですが、よく「しかとする」という言葉を使います。花札に「鹿と紅葉」の絵が描かれた札があります。あの札の鹿は横を向いています。花札の鹿の絵の札は10点札、鹿と十で横を向いて無視をするのが「しかと」だという、まあ、れだけの話しだと思って下さい。
それはともかく、一般的にはこの歌は「読み人知らず」とされ、百人一首の猿丸太夫は信用が薄いとされています。
次は古今和歌集巻の五、秋の歌の下。この巻の最初に登場するのが249番、小倉百人一首では22番に置かれている文屋泰秀の
吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を あらしといふらむ
という歌です。
この歌も写本によっては文屋朝康の歌とされています。
例えば新潮社が出した新潮日本古典集成という本では高野切などの写本をもとに文屋朝康を筆者としてあげていますが、岩波本は藤原定家筆の写本を基に文屋康秀を挙げています。ここでは定家本を採用しておきます。
吹くからに=吹いたことによって。しおるれば=萎れるので。「むべ」というのは「なるほど」という意味です。「あらし」は「荒らし」と「嵐」の二つを引っかけています。
つまり「嵐」とは、草木を荒らすもの「荒らし」という意味で、「山風」と縦に書いて、「嵐」という字になりますよ、と言っているのです。
この「吹くからに」の歌は、つまるところは言葉遊びの歌。
この文屋康秀という人、ちょっとしたエピソードがありまして、彼が三河の国の役人に任命されて任地に出立するとき、あの小野小町に「一緒に三河に行こう」と誘いをかけました。それに対して小野小町の詠んだ和歌が、
わびぬれば身を浮き草の根を絶えて
誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ
つまりはOKという返事です。後がどうなったかは、記録がありません。
なお、先に述べたように幾つかの解説ではこの歌の作者を文屋康秀ではなく、文屋朝康だとしています。朝康は康秀の息子で、この人の歌として有名なものは、これも小倉百人一首の37番に選ばれている歌で
白露に 風の吹きしく秋の野は
つらぬきとめぬ 玉ぞちりける
というのがあります。こちらは後撰集という歌集に収録されています。
また、先ほどこの歌を「嵐」という字を分解した言葉遊びの歌と言いましたが、これを離合詩と呼び、古今集にはこの他に紀友則という人の和歌として
雪降れば 木毎に花ぞ 咲きにける
いづれを梅と わきておらまし
などがあります。お分かりでしょうか? 「木毎に花」は木と毎、二つを並べると梅になります。この時代に、こんな遊びが盛んだったようです。
正岡子規が古今集を酷評するのは、このあたりのことを指摘しているのでしょうが、和歌が当時の社会で果たしていたコミュニケーション・ツールとしての役割を考えると、正岡子規の批判は当たらないと私は思っています。そのあたりのことはいずれお話しすることになるでしょう。
2008-11-17
小林一茶の優しさと温もり
人間というのは正直なもので少しでも苦手だという意識があると、どうしても敬遠する。
この連載の基になっている「ならどっとFM」での私のおしゃべり番組「昭和ラプソディ・パート2」の中に、「美しき日本の歌」というコーナーを置いたのは、最近おかしくなりつつある日本語を考えるための手段として、これまでの日本文化が産みだしてきた優れた文学の一つの分野である短歌・詩・俳句の中から私の好きなものをご紹介することで、リスナーの方に何かを感じてもらえないかという思いがあった。
私はこれらの短詩型文学が、日本語の持つ美しさを、長い歴史の中でより練り上げ豊かにしてきたと感じている。言葉は確かに時代とともに変化する。それを否定するつもりはないが、ひょっとすると失ってはいけないものまで、時代の変化の中で失いつつあるのではないか。そんな思いが、一時間の放送番組の中で、ちょっと異質なこのコーナーを続けている要因の一つだ。
ところで、この和歌と俳句を比べると、どうも私には和歌の方がとっつきやすい。もちろん私自身、和歌も俳句も自分では詠まない。ただ読んで楽しむだけなのだが、俳句は苦手(というより、良く判らない)という意識がある。そのこともあるのだろう。番組でもどうしても和歌の方が取り上げる回数が多い。
最近の放送で小林一茶を取り上げる気になったのは、実は苦手意識を少し変えたいと思って、定期的に購読している雑誌に、一茶が「雁」を詠んだ句が紹介されているのを見て、改めて「上手いなー」と感心したのが原因。さらに言うと、一茶の俳句は、何となく好きで、これまでも比較的良く読んでいたということもある。
その雑誌で見た一茶の句と言うのは
けふからは 日本の雁ぞ 楽ニ寝よ
という句。
ご承知のように雁ははるか遠く、北のシベリアの大地から、冬を日本で過ごすために海を渡ってくる。この句を詠んだ一茶は、もちろん雁がシベリアから渡ってくることは知るはずがない。しかし、どこかは知らぬが、毎年秋になると遠い海の彼方からはるばると旅をしてくる鳥であることは、知っていたはず。
その長旅をしてきた雁に対し、
けふからは 日本の雁ぞ 楽ニ寝よ
と呼びかける。
私が見た週刊のビジュアル誌『日本の歳時記』の中でこの一茶の句を紹介された大岡信氏は、その文の中で
「この句は「外ゲ浜」と題する。外ゲ浜は本州北端の津軽半島の海浜。一茶は象潟(秋田県)辺までは旅したらしいが、外ゲ浜までは行っていないだろう。これは、北から渡ってきた雁が、ついに日本の土を踏むその瞬間をとらえた想像の句ではないかと思われる。しかし彼自身はこれを得意句としていたらしい。「楽ニ寝よ」がいかにも一茶の感情がこもっていていい。雁のこういうとらえ方は、一茶以外の誰にもできなかった」と書いておられる。
小さな生き物に注がれる一茶の優しい眼差し。それは
やれ打つな 蠅が手を摺り 足を摺る
痩せ蛙 敗けるな 一茶 是にあり
などの句にも共通するものだが、この「雁」の句は、まさに一茶の面目躍如足るものがある。
春立つや 弥太郎改め 一茶坊
という一茶自身の俳句があるように彼の本名は小林弥太郎。三歳の時に母に死に別れ、家庭的には不遇な人生を送る。義理の母との葛藤や、父の遺産を巡っての争い、五十一歳で始めて家庭を持ったものの産まれた子どもも次々と亡くなり、十年ほどではるかに年下の妻にも死別。二度めの妻とは離別している。
一茶の句集として有名な『おらが春』は、彼が五十七歳のときに設けた長女、「さと」が一歳と少しで死んだことを中心とした日記風の発句集だが、この句集は有名な
目出度さも ちう位也 おらが春
で始まり
ともかくも あなたまかせの 年の暮れ
で終わる。
一茶の俳句は、どの句も、いわば洗練され、選び抜かれた言葉というより、その時々の感情を素直に言葉に出した飾り気の無さが、使われるやや鄙びた表現とともに、読む者のこころに響く気がする。
そんな一茶の句から、目に付いたものをご紹介しよう。秋の句を中心に選んでみた。
青空に 指で字を書く 秋の暮れ
名月や 膳に這いよる 子があらば
淋しさに 飯をくふ也 秋の風
秋風や 仏に近き 年の程
秋風や あれも 昔の美少年
日の暮れの 背中寂しき 紅葉かな
どの句も、余分な解説や、哲学的思考は必要がない。そのまま、素直に心にしみ込んでくると私は感じている。そして何といっても「優しい」し「温かい」。この一茶の優しさが私を惹きつける。もちろん、どの句もおそらく推敲に推敲を重ねた末の到達点なのだろうが、それを全く感じさせず、ただ、その優しい眼差しだけがこちらの心に伝わる思いがするのだが、いかがだろう。
2008-11-16
名調子が伝える歴史的一戦 この連載の6回目に阪神タイガースが朝日新聞に初登場したときの記事をご紹介した。今回は、高校野球(当時の中等学校)、というよりは野球ファンならどなたもご承知の伝説の名勝負についての記事をご紹介しよう。
甲子園球児の歴史に残る一戦、昭和8年(1933年)8月19日、夏の甲子園で行なわれた中京対明石の25回戦の記事。なおこの昭和8年は、今話題の『蟹工船』の作者、小林多喜二が特高警察によって虐殺された年でもあり、全国水平社によって高松地裁の差別裁判糾弾闘争が始められた年でもある。このほか、この年、昭和8年には日本が国連を脱退し、アメリカでは禁酒法が廃止をされ、ヨーロッパではドイツでヒットラーが首相に就任し、大阪では初の地下鉄が梅田〜心斎橋間で開通した年でもある。
紹介する記事は8月20日日曜日。第六面の上半分、5段記事で掲載された飛田穂洲氏による試合評の一部。この他の面でも幾つかの関連記事が掲載されている。
見出しは4段抜きの4行。
「新記録 熱戦廿五回 中京遂に勝つ 明石悲運に泣く おゝ凄絶!准決勝の搏撃」
写真は2枚。最後の点が入った場面と、継ぎ足されたスコアボードの写真が掲載されている。この記事以外、紙面の下半分は広告が掲載されている。
以下、飛田穂洲氏の試合評から
明石は楠本を控として左投手中田を起て意表に出た。楠本の制球は昨年に比しやや退歩の色あり、中京に乗ぜられる虞あるを慮って中田を推したものと思はれる。三年連投の吉田と新進中田の対抗、准決戦とはいひながら二十二代表中最も実力ある両チームが死力を尽くして闘う様、真に龍虎相搏つの壮観を今目の前に見如く大観衆只管声を呑む。一回から八回までに両軍三塁を踏むもの明石に一、中京に二といふ少数、九回までに安打各一を得たるのみ、吉田、中田の非凡なる投球は猛烈なる投手戦となった。
両軍はただ一点を争うて回を追ひ明石はしばしば失策を出したが、その都度併殺の美技を演じ
(中略)
十回から十一回何らの変化なく、徒に投手の威力を感嘆しつつ十二回となり十三回となり十四回となった
(中略)
かくして大会延長記録の十九回を破り選手はいよいよ気負いつつ牢として抜けざる鉄城を攻め合った。しかもこの壮烈無比の投手戦に魅せられた全観衆は選手よりも早く疲労を感じ、茫然沈黙を守るといふ状態であった。
(中略)
……遂に二十五回へと進んだ。
さすがに両投手には疲労の色が見え、球勢もやや鈍りボールも多くなった。果然明石の悲壮なる最期の時が来た。中田は前田に1-3の四球を出し、野口のバントは三塁手の前進に気を許して、中田躊躇したため無死一、二塁となし、鬼頭のバント中田三塁に封殺せんとして及ばず大野木を攻めて2−1となりながらカーヴを二塁前に打たれた。二塁手の本塁送球右に外れて万事休した。二十有五回は本邦野球史上のレコードであるが、それよりも絶称せねばならぬことは、この試合が、吉田、中田の両投手によって最期まで行なわれたことであって、かくの如きは恐らく日、米野球界に前代未聞のことであらう。まことに鉄腕以上といふべく勝敗の如何を問ふの必要はない。何れも敗けさせたくない試合であった。試合は投手力が余りに優秀であったため打力がそれに伴はず、自然得点することが出来なかった。安打明石に八、中京に七、四球は吉田十、中田八という少数は投手の異常さを窺ふに足るべく絢爛たる投手戦であった。この歴史的試合を眺めて只感嘆の声を放つのみ多くを語り得ない。よろこびに浸ったファンとともに心から選手に感謝したい。
試合評は以上で、このあとに十二回以後のスコアが記されている。
ついでに十一面に記載されたこの日(昭和8年8月20日)の決勝戦を前にした記事のリードをご紹介しよう。こんな名文というか名調子のリード記事は、もう書こうにも書けないだろう。じっくりとお読みいただきたい。なお、記事は全文改行なしだが、便宜、句読点と改行を加えた。
見出しは6段抜き4行。
「栄光の大旆目ざす けふ両雄晴の大争覇 搏撃廿五回
補回試合の新記録に 闘魂いや盛る平安・中京」
熱戦また熱戦!補回に次ぐ補回、スコア・ボールドには輝かしき円光000の二列縦隊―-十二回戦、十五回戦、十七回戦。ああ!ついに本大会の栄光燦たる大補回戦記録、大正十五年第十二回大会静岡中学対前橋中学の十九回試合もいまは追ひ抜いた。
……二十一回、三回……選手の眼は血走っている。観衆もヘトヘトだ、アナウンサーの声は嗄れてしまった。ただ炎々と原頭一ぱいに燃えさかって、回を逐うごとに勢ひ熾烈を加へてゆくのは、ファイティング・スピリットの焔、焔―。目には見えねど十万観衆の心臓に烙きつく紅蓮の焔!
西側大鉄傘の陰翳が東外野スタンドに届くほどに陽は西に沈みかける。午後一時より始めてまさに五時間!好打の白線は落暉に光って長く尾を曳くが、鉄桶の守備には微塵の揺ぎもない。覇を守りつづけんとする中京商業と、覇をとって代らんとする明石中学が五分と五分との攻防。
100%対100%の実力発揮。まさしく球国エヴェレストの頂に、雲表を抜いて聳ゆべき善戦健闘の方尖碑!
本社主催全国中等学校野球優勝大会第七日准優勝第二試合明石中学対中京商業の一戦に見た情景--。
円板四十九個の乱舞中、ただ一本の幸運の杖「1」は中京の陣に落ちたが、明石も敗れて微塵の悔を翳さず、勝者また粛として驕らず、光落日に映ゆるは若人の頬を伝ふ白い涙!黒い汗!
しかしてけふ、二十日の優勝戦、十九回目の橄欖のよそほひ花やかに真紅の大旆を捧げてなつかしの母校に、郷土に見えんとするものはいづれ?中京三たび獅子吼して東海の濱に霸王樹をたて、本大会始まって記録にない三年連覇のほまれを擅にするか?多年伝統の象牙塔を出て更生の大飛躍に、平安はその彗星的快勝をこの日も繰返さうとするか?
初秋風朗々の甲子園原頭、球神の大いなる掌にある、白き「運」。一片のキャスティング・ヴォートは午後二時を期してナインの頭に降らんとする。
いかがだろうか。こんな名調子の文を読むと、理屈抜きで、何か嬉しくなる。なおこの優勝戦、中京が勝利し初の三連覇を達成した。
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2008-11-15
磐之媛の心にあったのは何? 先週に引き続き、磐之媛の歌からご紹介する。
万葉集巻の二の冒頭に相聞歌、つまり恋の歌として載せられているのがここにご紹介する磐之媛の和歌。
難波高津宮(なにわたかつのみや)に天(あめ)の下知らしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)磐之媛皇后(いわのひめのおほきさき)天皇(すめらみこと)を思(しの)ひたてまつる御作歌(みたう)四首
の詞書きの次に四つの和歌が載っている。
ちなみに難波高津の宮に「天の下知らしめしし天皇」というのが、つまり仁徳天皇のこと。
一首目は
君が行き日(け)長くなりぬ 山たづね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ
そして二首目
かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の
磐根し枕(ま)きて 死なましものを
三首目に置かれているのが先週ご紹介した和歌
ありつつも君をば待たむ 打ち靡(なび)く
わが黒髪に 霜の置くまでに
そして四番目に置かれているのが
秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞
何処辺(いづへ)の方に わが恋ひ 止まむ
岩波版の「日本古典文学大系」の解説には「この四首は歌風や四首の構成からみて、磐之媛皇后の作ではなく、伝承歌が皇后に仮託されたものと思われる」と書かれている。実は万葉集はこの四首の和歌のすぐ後に、これとほぼ同じ表現の和歌を伝承歌として取り上げ、さらに古事記や日本書紀にある磐之媛皇后の嫉妬深さを物語る比較的長文の記事を引用している。そのことも、違う人の作を磐之媛伝説に仮託して並べたとする根拠なのだろう。
しかし、この歌が古くから伝わる伝承歌なのか、それとも磐之媛の自作なのかの詮索は専門家にお任せするとして、それぞれの歌の持つ美しさは万葉集の選者が巻二の相聞歌のトップに置いただけのことはあると私は思っている。
簡単にそれぞれの歌の意味を書いてみよう。まず最初の
君が行き日(け)長くなりぬ 山たづね
迎へか行かむ 待ちにか待たむ
の歌は
あなたが御幸に出られてから随分と日数が経ちました。あなたの行き先を訪ねてお迎えに行こうかしら それともここで待ち焦がれていようかしら
という意味だろう。
この歌にある「山たづね」は別に何処の山という特定の山がある訳ではない。「迎かう」という言葉の枕詞として「山たづの」という言葉があるので、おそらくはその程度の、つまり「あなたの行き先」という意味で、ただひたすら恋しい人の帰りを待ち続ける女性の姿が浮かんでくる。
この歌についても、別の女性のもとを訪れた天皇が、なかなか帰ってこないのを嘆いて詠んだ歌だとして、磐之媛の嫉妬深さを物語る話しが附属しているのだが、今日は触れない。
二番目の歌は
かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の
磐根し枕(ま)きて 死なましものを
これは激しい。まさに情念のほとばしるような歌。
これほどに恋しい思いをするのなら一層のこと高い山の岩を枕にして死ぬ方がましだ、という。書かれた通り、そのままの歌。磐根しまきて、の「ま」は「枕」という字の古い読み方。
死というのは何時の時代にも人間にとって最大の出来事。万葉集には数多くの死を悼んだ歌、いわゆる挽歌が載せられているが、これらの挽歌には「死」という言葉は基本的に使われていない。一種の忌み言葉、つまり使ってはならない言葉として扱われてる。
ところが相聞歌にはしばしば「死」という言葉が使われる。「死ぬるほどの恋」というのは古代から今に至るまで変わらぬものの一つ。本当の恋というのは、それほどに激しいものだということだろう。
さて三番目の歌は
ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く
わが黒髪に 霜の置くまでに
これは前回取り上げた。あなたの帰りを門の所で朝まで待っています。私の黒髪に朝の霜が降りるまで、という意味、あるいはもっとスケールを大きく考えると「私が白髪になってもあなたをまち続ける」という意味にもなる。
そして四番目の歌。
秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞
何処辺(いづへ)の方に わが恋ひ止まむ
四首の和歌の二番目に置かれている「岩を抱いて死にたい」と謳った和歌と、この「いづへの方に我が恋い止まむ」と謳った二つの歌は、初期の万葉集に載せられた相聞歌の中で、私が好きな歌の一つ。
歌の意味は
秋の田の稲穂の上に立ちこめている朝霞がやがて消えてゆくように、どちらの方向へ私の恋は消えてゆくのだろうか。恋の思いは凝り固まってしまって、晴れることは無さそうだ、という意味。
目の前に広がるいつ、そして何処へ消えるかもわからない朝霞。しかしその霞も、いつかはどこかへ消えてゆく。なのに私の恋心は消えてくれようともしない、私のこの恋に、あの人は答えてくれようともしないのに、私の胸のうちの恋心だけは、いつ晴れるかもわからぬままに、続いている……。
そんな、恋する女性の心が、実った秋の田の稲穂の上に広がる朝霞というしっとりとした情景の中で揺れ、そして動く。
この歌と
かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の
磐根し枕(ま)きて 死なましものを
という激しい歌は、明らかに違いがある。そのこともあってこの歌の作者を別々に考えるのが一般的なのだろうが、同一の女性の中にある二面性が示されたと考えても不自然ではないと思うし、私はむしろそう考えた方が、歌の広がりがあるような気がしてならない。
磐之媛は迎えに来た仁徳帝を追い返し、そのまま筒城宮にとどまり、そこで亡くなる。それは単なる嫉妬を越えた何かの存在を感じさせる。
ともあれ、奈良の佐紀盾列古墳群の一画にあるのが磐之媛陵。そして夫である仁徳天皇の墓は、はるか生駒山を越えた堺に。磐之媛の后は、今も奈良の地にあって、夫が訪れてくるのをただひたすらに待っているのだろうか。
皇位の継承を巡って陰謀術策が渦巻く古代の天皇家。おそらくはその渦中にありながら、何か一筋のものを持ち続けた女性……。
皇后・磐之媛の墓ではなく、恋に悩み悶えた一人の女性が眠る墓として訪れたら、濠の睡蓮は別の姿を見せてくれるかもしれない。
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2008-11-14
佐紀丘陵に眠る磐之媛 この連載の元になっているのは、これまでも何回か書いているように、私が「ならどっとFM」という地域FM局でおしゃべりをさせてもらっている「昭和ラプソディ・パート2」という番組の中の「美しき日本の歌」というコーナーで使っている原稿。
このコーナーは一時間番組の後半の冒頭に置いているのだが、そのテーマ音楽に使っているのが、北見志保子作詞、平井康三郎作曲の『平城山』のメロディー。日本歌曲の中の名曲の一つとして親しまれている曲だが、この歌が発表されたのが1935年、昭和10年。私の生まれた年に誕生した曲だということもあって、もっともお気に入りの曲の一つで、私の愛唱歌でもある。
今日ご紹介するのは、この『平城山』の歌の主題となっている奈良市にある佐紀盾列古墳群の一角に眠る女性、磐之媛(いわのひめ)の歌をめぐっての話し。
歌曲『平城山』は、北見志保子が引き裂かれて異郷の地にいる恋人への思いを、奈良の「磐之媛陵」に寄せて歌った和歌に曲を付けたものだが、その磐之媛陵は佐保路を西に、佐紀丘陵の一角に位置する佐紀盾列古墳群の中の一つ。濠をめぐらした大きな前方後円墳が仁徳天皇の皇后である磐之媛を葬ったとされる磐之媛命陵。
磐之媛は葛城豪族の出身で、夫である仁徳天皇が八田皇女を妃にしょうとしたのを怒り家出をして山城筒城宮に住み、天皇の住む難波宮に帰ることなく、仁徳35年(347年)、山城の同宮で死去したと伝える。嫉妬に苦しみながらも天皇を愛し、また、優れた歌人として万葉集にもその歌が載せられている、というのがこの女性、磐之媛についての最も一般的な解説。
御陵の近くに歌姫越と呼ばれる京都と奈良を結ぶ旧街道の一つがあり、「歌姫」の名は磐之媛を偲んで付けられたという。
ではその歌。
ありつつも君をば待たむ
うちなびくわが黒髪に霜の置くまでに
磐之媛の作とされている歌は万葉集巻二に四首並べて載せられている。この「ありつつも」の歌もそのうちの一首。素直に読むと、このままであなたをお待ちしましょう、私の髪に霜が降りるまで、という意味なのだが、これには別の解釈もある。
この歌を単独で読むと、「黒髪に霜の置くまでに」の部分は、恋しい男性の訪れを門のところに立って待っている女性が、「朝になって私の髪に霜が降りようと、私はあなたが訪れてくださるのを待ち続けます」という、人を恋する女性の一途な姿が浮かんでくるのだが、磐之媛作とされる四首を並べると「黒髪に霜」というのは「年を経て白髪になっても」という、いささか執念深い女性の姿が浮かんで来て、何か恐ろしささえ感じられる。
よく、「髪は女の命」と言われる。「うちなびくわが黒髪」という表現には、自分の容貌や姿態への絶対的な自信さえ読み取れる。その自慢の黒髪が白髪になっても……。いやはや凄まじい。
ところで日本書紀や古事記にはこの磐之媛皇后が嫉妬深い、やや怖い女性として描かれている。
書紀には磐之媛皇后が詠んだ歌として
衣こそ 二重も良きさ 夜床を
並べむ君は 恐ろしきかも
というのが載せられている。意味は読んだ通りで、衣なら二枚を重ねても良いのですが、あんな女と並んで寝ようなんて、なんて彼方は恐ろしい方でしょう、という意味。
蛇足だが「衣」というのは夜寝る時に身体にかける衣のことで、この時代には「掛け蒲団」がまだない。夜着を掛けて寝ていた。この歌は実にストレートに相手を非難し、自分の妬心を隠そうともしない。
この嫉妬の対象となっている仁徳天皇は書紀によれば第16代天皇で応神天皇の後を継いだ天皇。実は応神天皇の後継者とされる人物は二人あり、応神帝は利発な弟の若郎子(菟道稚郎子・うじのわきのいらつこ)に皇位を譲る予定だった。ところが応神帝の死後、若郎子は異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=仁徳帝)が皇位を継ぐべきだとして三年間に亙って譲り合いを続け、若郎子はついに自殺することになる。皇位の継承を巡っては陰謀と殺し合いが常の古代にあっては、この譲り合いは希有の例の一つとして、美談あつかいで伝えられる。
その和郎子の遺言に「是は天命、私は死にますがせめて妹の八田皇女をあなたの後宮に入れて下さい」とあった。
この八田皇女が磐之媛の嫉妬の対象となった問題の女性。仁徳帝は彼女を後宮に入れようするが皇后である磐之媛はこれを認めない。そして今の
衣こそ 二重も良きさ 夜床を
並べむ君は 恐ろしきかも
の歌が詠まれる。
ご承知のように天皇の最大の仕事は皇位継承者を遺すこと。今年、千年紀を迎えている源氏物語の冒頭に「女御、更衣あまたさぶらいたまいけるなかに」とあるように、皇后、后、女御、更衣などの序列にある女性だけでなく、もろもろの女性たちに常に囲まれている。天皇家で一夫一婦制が生まれるのは病弱だった大正天皇から。現在ですら男性による皇位継承論者の一部に、現在の皇太子に別の女性をという論議がつい先ごろまで交わされたのは周知のこと。
そんな中で、仁徳帝が八田皇女を後宮に入れようとしただけで磐之媛皇后が激しく反発するのは変な話だということになる。事実、仁徳帝は結構多くの女性に手を出しているが、磐之媛皇后が反発するのはこの八田皇女ともう一人だけ。
さらに八田皇女の出身氏族と磐之媛皇后の出身氏族との間に伝えられる昔からの抗争を考えると、単なる嫉妬心の反発だけとは言えない背景が浮かんでくる。それはさらに皇位継承を巡って譲り合ったという若郎子と大鷦鷯尊、つまり仁徳天皇との話しにもさまざまな憶測が語られ、若郎子の自殺の真相までいろいろと取り沙汰されることになる。
書紀に載せられた磐之媛の歌
衣こそ 二重も良きさ 夜床を
並べむ君は 恐ろしきかも
と、万葉に載せられた
ありつつも君をば待たむ
うちなびくわが黒髪に霜の置くまでに
の二つの歌の微妙なニュアンスの違いから、万葉に載せられた四首は、記紀にある磐之媛伝説を下敷きに、別の人の歌を並べた、という説もある。ある、というより、別人説が現在ではほぼ定説。
今回は磐之媛の和歌のご紹介、というより磐之媛をめぐる物語の紹介になってしまった。次回も磐之媛の歌を続けることにする。
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2008-11-13
昭和12年の賃上げ闘争から 「順法闘争」という言葉をご記憶だろうか。国鉄労組など交通労働者が編み出したこの優れた闘争方式も、いつの間にかどこかへ消えてしまった。資本の論理に首どころか頭のてっぺんまで漬かってしまった昨今の労働組合には、もはや闘う姿勢は消え、それどころか労働者の団結の姿すら希薄になり、ほとんどの「労働」組合が、かって、私たちが御用組合と揶揄した存在そのものになりさがってしまった観がある。
ところでいま「国鉄労組など交通労働者が編み出した」と書いた「順法闘争」が最も盛んだったのは1970年代。ストライキ権を奪われた三公社五現業と呼ばれる職場労働者のうち、特に国労の闘争手段として用いられたものだが、この闘争方式が戦前、昭和12年、1937年にすでに奈良の交通労働者によって用いられていたことをご存知だろうか。
昭和12年5月6日(ちなみにこの二ヶ月後の7月7日には蘆溝橋事件が起きている)、大阪朝日新聞奈良版の記事からご紹介しよう。
見出しは四段抜き三本。奈良版トップ記事で全八段
「定員以上お断り スピード厳守ののろのろ運転
奈良自動車の怠業」
この三本の見出しの間に、罫線で囲まれた四段ぶち抜きで次のリードが四行で置かれている。
「賃金値上問題に絡み四日午前十一時会社側と最終的交渉を行った結果、現下の不況時代における経済自立困難を理由に嘆願を一蹴された大軌(現・近鉄)傍系会社奈良自動車株式会社従業員一同は同夜八時より市内油坂町車庫において従業員大会を開催、代表者から全員に交渉の結果を発表しいよいよ五日の初発から定員運搬、スピード厳守の「自主的安全デー」と称する新戦術のろのろ運転に移った」
以下本文。なお句読点を適宜補ったほかは原文のままとした。
「奈良、桜井、王寺営業所、笠置、八木、法隆寺支所の従業員約二百名は、市民並に沿線住民、県下自動車従業員に対し
『奈良自動車の争議に際し市民並に沿線住民に謹んで御挨拶申上げます。我々は今日まで莫大なる大軌資本の下に働きながら、大の男がしかも技術者としての免許證を持ちながら、月五十円にも満たない賃金で働いて来ました、私共の苦衷を十分お察し下さい。まして私共が、会社当局に反省を促すために決行致しました「事故なしデー」「安全デー」「親切デー」による皆様の御迷惑不行届に、御寛大なる御声援を賜わりたいと思います』
のビラを配布するとともに乗合バス、ハイヤーは一斉に規定された最高スピード三十五キロの半分にも達せない
十五瓩(キロ)のスピードで走り、乗車場では一々乗客の数を読み定員十三名以上は断って、法規による正当視されたサボタージュを開始した。面食ったのは市民や沿線の住民で、唯一の交通機関であるためうっかり平常通りの出勤時間に家を出たサラリーマン達は「お気の毒様でございます。定員は十三名でございますので」との車掌の言葉に口アングリ、やっと来た定員未満の車に乗れたと思うと、最高十五キロという牛のようなスピードだ。
これがため役所や会社でも遅刻遅刻で大弱り、他府県から来た遊覧団体客はサッパリわけが解らず、ノロリノロリと走る車にも乗れぬ勝ちで恨めし相に見送るばかりだった。
午後からはこの従業員の合法的なサボタージュをやっと納得した市民たちは「頑張れ、負けるな」の檄を飛ばす者も多数見受けられた。この合法的な新戦術のノロノロ運転に移るまでには、従業員達は数回会社側と交渉して軽く刎ねられて来たもので、内々不満な空気を漲らせていたところ、たまたま従業員側を支持するごとき文句の投票が舞込んだ結果、一時に従業員の団結となったもので、現在のところガッチリしたリーダーもなく、女車掌の如きはその根本理由も解らぬままサボタージュに追従しているものも多く、ごく平穏な空気のうちにノロノロ運転を行なっているが、時日の経過とともに会社側が如何なる態度に出るかが非常に注目されている。
(以下略)
この自動車会社の規模は「車両数七十余台、従業員二百五十名、路線延長は県下乗合路線の四割以上」とこの記事は伝えている。
またこの記事に続いて「県の保安課は成行を静観する」との記事を掲載している。
とにかく日中戦争が始まった昭和12年、1937年に奈良ではこんな「順法闘争」が行なわれていた。
ちなみに、記事には「月給五十円」とあるが、このころの物価は新聞購読料が月額九十銭、週刊誌十五銭、小学校教諭の初任給は四十五円となっている。
社会に何が起ころうと、老人医療費がどうなろうと、惰眠をむさぼったままの昨今の労働組合指導者たちに読ませたい記事の一つではある。
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2008-11-12
老成の青年歌人・源実朝 今回ご紹介するのは鎌倉幕府三代将軍の源実朝の和歌です。
私が源実朝に関心を抱くようになったのは、作家・太宰治が戦時中の1943年、昭和18年に発表した長編小説『右大臣実朝』を読んだのがきっかけです。高校二年の冬でした。太宰治が好きで、当時の『八雲版・太宰治全集』などを買い込んで読みあさったものですが、太宰の小説の中では代表作と言われている『人間失格』や『斜陽』より、私はこの『右大臣実朝』の方が好きで、今でもときどき読み返している作品の一つです。
鎌倉幕府の第三代征夷大将軍・源実朝は「鎌倉殿」または「鎌倉右大臣」とよばれました。鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就くことになります。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったものの、成長するにつれ関与を深めてゆきます。武士として初めて右大臣に任ぜられることになりますが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子、公暁に襲われ落命します。建保7年、1219年1月。享年26歳。子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えることになりました。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれていますし、家集として金槐和歌集があります。その代表的な歌に百人一首に選ばれた
世の中は 常にもがもな渚こぐ
海士(あま)の小舟の 綱でかなしも
があります。
この実朝の歌について正岡子規は『歌よみに与ふる書』の中で
「實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候」と述べています。正岡子規の和歌に対する考え方、あるいはその評価は、私には納得できないことが多いのですが、この実朝に対する評価は、賛成です。
実朝が詠んだ有名な和歌には 百人一首の歌のほかにも
ものいはぬ 四方(よも)の獣 すらだにも
あはれなるかなや 親の子を思ふ
時により 過ぐれば民の 嘆きなり
八大竜王 雨やめたまえ
などがあります
その実朝の和歌を集めた「金槐和歌集」から私が気に入っている幾つかの和歌をご紹介しようと思います。それは、彼が年老いた法師が昔話を物語るのを聞いて詠んだとされる歌です。
年経(ふ)れば さむき霜夜ぞ 冴えけらし
頭(かうべ)は山の 雪ならなくに
頭の白いものは山の雪ではないのだが 年をとると霜夜の寒さがいっそうこたえるらしい
こんな歌が気になるのは、こちらがそれだけ年をとったからでしょうか。
われ幾(いく)そ 見し世のことを 思ひ出でつ
明くるほどなき 夜の寝覚めに
明け方もほど近い、ふと目を覚ましてしまい、夜着の中でじっとしていると、自分がこれまで身を処してきたこの世のさまざまな出来事が、幾つも幾つも頭の中に浮かんでくる。
ひょっとするとその記憶は、自分の中から消し去りたい記憶かも知れません。
そのためでしょう
思ひ出でて 夜はすがらに 音をぞ泣く
ありしむかしの 世々のふるごと
その昔の、あの時この時の古い記憶が次々と脳裏に浮かんできて、夜通し声をあげて泣いている、ことも度々なのです。
そして
さりともと 思ふものから 日を経ては
しだいしだいに 弱る悲しさ
年をとっともまだまだ丈夫だとは思っているものの、月日の経過とともに身体の衰えを思い知らされることが、どうしようもなく悲しい
さらに
なかなかに 老いは呆れても 忘れなで
などか昔を いと偲ぶらむ
もうすっかり老いて呆けてしまった私なのに、なまじ昔の記憶だけが、心を去らずに、懐かしんでいる。一体なんだというのか
どの和歌もなんとも身につまされる歌です。まだ二十二歳の実朝の歌。彼の精神構造を知りたい思いがします。
そして私が最も好きな実朝の和歌を最後に
神といひ 仏といふも 世の中の
人の心の ほかのものかわ
まさにその通りだと思いませんか?
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2008-11-11
「君死にたまふことなかれ」
1878年(明治11年)に生まれ 1942年(昭和17年)に亡くなった与謝野晶子。明治から昭和にかけて活躍した大阪・堺市出身の歌人であり作家であり思想家として幅広い活躍をした女性として知られる。夫は与謝野鉄幹。
大阪府堺市の老舗和菓子屋に生れ、20歳ごろから和歌を始め、1900年(明治33年)に歌人・与謝野鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、1901年、明治34年に処女歌集『みだれ髪』を刊行し浪漫派の歌人としてのスタイルを確立してゆく。
この初めての歌集『みだれ髪』に収められたのが有名な短歌
やは肌のあつき血汐にふれも見で
さびしからずや道を説く君
で、これによって「柔肌の晶子」とも呼ばれ、「情熱の歌人」としてその名を高めることになった。
この最初の歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現することなど考えられなかった時代に、女性の官能をおおらかに謳い、伝統的歌壇からは反発を受けたものの、世間の耳目を集めて人々の熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすことになる。
この歌集『みだれ髪』からいくつか拾い上げてご紹介すると
今はゆかむ さらばと云ひし夜の神の
御裾さはりて わが髪ぬれぬ
みだれ髪を 京の島田にかへし朝
伏してゐませる 君ゆりおこす
乳ぶさおさへ 神秘のとばりそとけりぬ
ここなる花の 紅ぞ濃き
など、何とも官能的な歌がたくさんある。
1904年(明治37年)に、今日ご紹介する有名な詩、『君死にたまふことなかれ』を発表。また明治44年には、日本初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿する。その冒頭だけをご紹介しよう。
山の動く日来る。 かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(をなご) 今ぞ目覚めて動くなる。
この最初の言葉は、かって日本社会党という政党があったころ、党首の土井たか子氏が総選挙での勝利宣言に使い、一気に有名となった。
女性の決起を促す激しい詩。この詩が発表された雑誌『青鞜』が創刊されたのは明治44年だということを考えると、この宣言の持つ意味は大きい。ちなみに、この雑誌の創刊号の表紙の絵を描いたのは、後に高村光太郎と結婚することになる長沼智恵子。
ところで今日とりあげる「君死にたまふことなかれ」は日露戦争に出て旅順包囲戦に加わっていた弟へ寄せて明治37年に『明星』に発表した詩。
その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自は出かけない)」と唱い、晶子と親交のあった歌人で文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判。これに対して晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏こき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴する。
日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らの戦争を嘆く詩を垣間見ることができるが、それにしても晶子のこの気概は、凄まじいものがある。
大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹らが直談判し、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は一応収束することになった。
それではその大町桂月に、「乱臣、賊子の詩」と呼ばれた「君死にたまふことなかれ」をお読みいただく。
あゝ、をとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく、
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。
暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。
この与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の詩は、しばしば反戦詩の代表のように言われる。しかし晶子は本当の意味で「反戦歌」としてこの詩を書いたのだろうか?
晶子は満州事変の翌年、1932年に、自らの『みだれ髪』の世界を否定し、やがて強烈な天皇賛美、戦争推進の言辞を表すようになる。
そして、太平洋戦争の時には
水軍の大尉となりて わが四郎
み軍に往く 猛く戦へ
と、自分の子どもへの進軍ラッパを吹くなど、戦争美化への姿勢が目立つ。
このことを考えると、「君死にたまふことなかれ」の世界は、晶子自身の中では、戦争そのものへを否定したというよりは、彼女の弟への極端な感情移入による、弟と姉だけの閉じられた世界を謳ったに過ぎないとも言える。
だからといって、この詩、「君死にたまふことなかれ」の持つ普遍的な価値は変わらないのだが…。
2008-11-10
昭和十二年の「天声人語」を読む 前にも書いたように、満州事変を境にして各新聞の論調は戦争賛美に大きくその舵を切ってゆく。もちろん朝日新聞とて例外ではない。そんな朝日新聞の昭和12年、1937年、蘆溝橋事件が起き、日中戦争が始まる年の1月1日に掲載された「天声人語」。抑えた論調ながらキラリと光るものがある。筆者はあらゆることに気を配りながら書いたのだろう。そのことが読んでいてヒシヒシと伝わってくる。
なお、ルビを外したほか、漢字以外は原文のままとした。
何をもつて年首の辞とすべきか▼千里同風めでたく申納め候とはいひがたい世態が右からも左からも押寄せてゐる▼暴風は内にも外にも吹き荒んでをり、一つ間違へば屋根瓦ぐらゐ吹き飛ばされさうな荒天である▼誰も表面をつくろふことによつて一時的苟安に耽っていいと思ってゐるものはないが、さりとて誰も先頭に出て好んで手傷を負ふまいと考へる▼以心伝心、何とか打開策が考へられながら、さてといつて実地には何の打開策も真剣には試みられず、ただジリジリと羽目板に押しつけられてゐるだけの存在ではないか▼この息詰まる空気に助勢するものは、第一に言論抑圧である。六十余項目にわたる記事差止は、国民の眼と耳を掩う証拠品でなくて何であらう▼真実は語れないもの、きかれないものとしてゐる風潮は、たとひ真実を告げても真実とせず、まだその奥に何かひそんでゐるんじゃないかと疑心暗鬼に囚はれる▼どこか国民の耳目に触れぬところで何事かが企まれ、仕組まれてゐるやうな流言蜚語がお互ひの食卓の上へ間断なく放送されて来るといつた現状だ▼その内何もあるわけではない。根も葉もない懐疑的産物に過ぎないのが、どのくらゐ現在の日本の明朗性を失ってゐるか知れないのである▼最大の遺憾事は思想上の角逐が漸く日本の各層に露骨な波紋を描き出そうとしてゐることだ▼人民戦線とか国民戦線とかいふのではもとよりないが、その動向について見るときは稀厚の差があるだけである▼日独防共協定の成立は、今まで曖昧裡にあつたこの種の思想的ギャップを截然と彩色してしまった観がある▼すなはち日独協定に真っ向から反対するものと支持するものとが、国内に対立を見に至った▼このことは今後の日本の外交上にも政治上にも、将たまた社会事象の上にも必ずや予想以上の重大関係をもたらすといひ得る▼「三七年の危機」は「三六年の危機」に比して一段と内攻された、深刻な内燃性をもったものと思はれる▼屠蘇の元旦に危語を弄する気が知れぬといふかも知れぬが、敢えていふ、非常時日本の展開はこれからであると。
この元旦の朝日は28ページ建て。この日の主要な記事として◎無条約時代と国民の覚悟 末次信正海軍大将◎チアノ伊外相と語る 前田特派員◎非常時支那を背負う人々 前田特派員などがあげられている。また執筆者には岡本綺堂、石川達三、九鬼周造、村社講平などの名前が見られる。
しかしそれにしても、という思いがする。あの時代にこの「天声人語」を書いた執筆者に敬意を表したい。
テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術
2008-11-09
奈良時代も江戸時代も、そして今も
さて今回取り上げるのは万葉集です。万葉に残された約四千五百首のさまざまな和歌。そのどれもが「珠玉の言の葉」と呼ぶのに相応しいものですが、今日は山上憶良が詠んだ有名な「貧窮問答歌」をご紹介しようと思います。
歌人、山上憶良についてご紹介しているといくら紙数があっても足りませんので、別の機会に譲るとして、すぐに歌のご紹介をします。
万葉に載せられた山上憶良の歌は約八十首。例えば有名なものに、
憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむ
それその母も吾(わ)を待つらむそ
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに
まされる宝 子にしかめやも
などが広く知られています。
しかし、それにもまして有名なのが「貧窮問答歌」と呼ばれる長歌。この「貧窮問答歌」は、二人が問答をする形で詠まれている長歌ですが、歌の存在は知っているが全部を読んだことがない、どんな歌かまではは知らない、という人もけっこう多いようです。
長い歌ですので、一句ごとに区切って簡単な解釈をつけながらご紹介します。なお念のためにお断わりをしておきますが、このコーナー(連載)で扱う歌の解釈は、私のその時の気分が多分に反映されいます。学校の授業ではありませんので、必ずしも文学的(あるいは学術的?)に正しい解釈とは限りません。そのことを蛇足ですがお断わりしておきます。
歌はまず一人の問い掛けで始まります。
風雑(まじ)へ 雨降る夜(よ)の 雨雑(まじ)へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば
風をまじえた冷たい雨が降る夜、さらに、その雨にまじって雪までもが降る、そんな夜は どうしようもなく身体も凍りつくように寒いから、
堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しわぶ)かひ 鼻びしびしに
固く粗末な塩を少しずつなめながら、本物の酒など到底手に入らぬから、酒粕を湯で溶いた糟湯酒をずるずるとすすり、咳を何度もしては鼻水をくずぐずとすすり上げる。
しかとあらぬ 髭かき撫(な)でて 我(あれ)を除(お)きて 人はあらじと 誇ろへど
ろくに生えているわけでもない少しばかりの髭を偉そうに撫でて、自分を差し置いて、自分より優れた能力のある人はおるまいと大いに自惚れ、威張ってはみるものの
寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを
気持ちはともかく、やっぱりこの寒さは身に応えるので、麻でつくった蒲団をひっかぶり、袖無しの着物を ありったけ重ね着をしてみても、それでもまだ寒い夜なのに
我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ 此の時は 如何にしつつか 汝(な)が世は渡る
こんな寒い夜には、私よりももっと貧しい人の親は飢えてこごえているだろうし、その妻や子は力のない声で泣いているのだろうが、こういう時には、どうやってお前は暮らしを立てているだね。
そして問うた人間よりもさらに貧しい暮らしをしている相手が答えて歌います。
天地(あめつち)は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる
天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのでしょうか。私は自分のみの置き所がどこにもないように思えます。
日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾が為は 照りや給はぬ
太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えて下さるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのでしょうか。私には世の中が闇のように思えます。
人皆か 吾のみや然(しか)る
他の人も皆そうなのでしょうか、それとも私だけなのでしょうか。
わくらばに 人とはあるを 人並に 吾(あれ)も作るを
たまたま人間として生まれ、人並みに自分も働いているつもりなのに、
綿も無き 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)の 如(ごと) わわけさが れる 襤褸(かかふ)のみ 肩 にうち懸け
満足な着るものを買うことも出来ないので、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも着古して海松(海藻)のように破れて垂れ下がり、ぼろぼろ(かかふ)になったものばかりを肩にかけて、
伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て 憂へ吟(さまよ)ひ
低くつぶれかけた家、曲がって傾いた家の中には、地べたにじかに藁をほぐして敷いて、父母は枕の方に、妻や子は足の方に、こにな頼りない自分を囲むようにして、身を寄せあって 悲しんだりうめいたりしており、
竃(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣懸(か)きて 飯炊(いいかし)く 事も忘れて 鵼鳥(ぬえどり)の 呻吟(のどよ)ひ居(お)るに
かまどには火の気もなく、食料を入れておく甑には蜘蛛の巣がはって、もう長い間、穀物なども手に入っていないので飯を炊くことも忘れたふうで、妻や子が、かぼそい力のない声でせがんでいるというのに
いとのきて 短き物を 端(はし)きると 云えるが如く
ただでさえ短いものの端っこをさらに切って短くする、と諺にもあるように、悪いことはまた重なるもので
楚(しもと)取る 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来(き)立ち呼ばひぬ 斯(か)くばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道
鞭を持った里長の呼ぶ声が寝ている所にまで聞こえてくるほどにがんがんとわめいて 税を納めろという。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのでしょうか。
そして最後にひとつの短歌がこの問答を締めくくります。
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
この世の中を辛いと思い、身も細るような気がするのだが、どこかへ飛んでゆくことも出来ない。私は鳥ではないのだから
これが山上憶良の「貧窮問答歌」です。
いまから8年前、西暦2000年に石川県金沢市にあります「加茂遺跡」という場所から、嘉祥2年(西暦849年)に書かれた「膀示札」と呼ばれる板に書かれた当時の「御触れ書き」が出土して私たちを驚かせました。
土に埋もれることで奇跡的に今に伝わったこの板の札には、「百姓は午前4時には農作業に出掛け、午後8時に家に戻ること」「百姓はほしいままに魚、酒を飲食してはならない」など、8項目の禁制が記され、「もしこれを守らぬ百姓があれば村長はその百姓の名を申告せよ」と書かれています。
ちょうど、この山上憶良の貧窮問答歌が作られた少し後の頃の制札です。
そして江戸時代に出された「慶安触書」には、百姓への通知として、「朝は草を刈り、昼は田畑を耕し、夜は縄をなうこと」と書かれています。
日本の民衆はこのように一貫して搾取され続けてきたのです。
いまアメリカでサブプライムローンが問題になっています。テレビで見ると、家のローンを支払えなくなった多くの人が住んでいた家を追い立てられて、公園でのテント生活を送っています。まさに容赦のない資本の論理が、アメリカの貧困層を襲っているのです。
このアメリカの貧困層と呼ばれる人たちはは全人口の約13%、約三千七百万人。そしてその貧困層全体の4割といいますから千四百八十万人という膨大な人々全員の年収の総額と、あのマイクロ・ソフトの総責任者、ビル・ゲイツ一人の年収がほぼ同じだといわれます。
そしていま、規模こそ違うものの、日本でもここ数年で収入格差は広がっています。さまざまな事件の背景に見え隠れする貧富の差が生んだ絶望感。昨年、朝日新聞の雑誌『論座』に発表されて問題となった若者による「戦争待望論」は、今も続く「貧窮問答歌」の一つなのでしょう。
2008-11-08
放浪の俳人、斎部路通 短歌、俳句、詩、漢詩など、放送での「美しき日本の歌〜珠玉の言霊を詠む〜」のコーナーでは、さまざまな短詩型の文学作品から、私の好みで選んで紹介している。それだけではない。今月(2008年8月)の9日の土曜日、長崎の原爆記念の日には、吉永小百合さんの原爆詩朗読のCDの一枚、『第二楽章 長崎から』を使わせてもらって、原爆詩の朗読を聴いてもらったりもしている。
なるべく万遍なく、さまざまな分野から取り上げようとはしているのだが、なかなか上手くゆかない。
この「美しき日本の歌」のコーナーで、俳句を題材に取り上げたのは、このコーナーを始めてから17回目だった。
しかも取り上げたのは斎部路通(いんべろつう)という俳人。俳句を学んでいる人たちは別にして、一般には余り馴染みのない人だ。ではその時の放送用原稿から……。
俳句といえば俳聖と呼ばれた松尾芭蕉を筆頭に、それこそ誰でもが知っている「朝顔に釣瓶取られてもらい水」の句を詠んだ加賀千代女。「我と来て遊べや親のない雀」と詠んだ小林一茶などなど、有名な、学校の教科書にも出てくる俳人は沢山います。今後も機会があればこれらの人たちの俳句もご紹介するつもりですが、このコーナーで俳句を始めて取り上げる今日は、あえてそんな有名な人々を避けて、ちょっと変わった、芭蕉の門人の一人を取り上げてみようと思います。
俳人の名は斎部路通。さきほども言いましたように、松尾芭蕉の弟子のひとりですが、芭蕉の弟子としてすぐに名前の浮かぶ河合曾良、杉山杉風、向井去来などに比べると、正直なところあまり有名な弟子ではありません。マイナーもいいところ、と言っていいでしょう。
京都の出身で神職の家に生まれたといい、後に僧籍に入り諸国を放浪、一時は男娼を生業にしていたなど、さまざまな説がありますが、良く判っていません。芭蕉との最初の出逢いも道端に寝ているところを芭蕉から声をかけられたからだと言います。
一説には芭蕉と同性愛の生活を送ったとも言われますがこれも確かではありません。
芭蕉に同居、芭蕉自身、奥の細道への旅にこの路通を同行するつもりだったのが、奥の細道の旅に出る直前に姿を消し、そのことで芭蕉の不興を買い破門同然の扱いを受けたといいますが、これも伝えでしかありません。
結局、芭蕉はご承知のように河合曾良を旅の同伴者として奥の細道へ旅立ちます。
芭蕉と斎部路通とはその後も何度となく関係が有ったようです。この辺が同性愛の不思議さかもしれません。奇行の人としても知られ同門の芭蕉の弟子たちからはあまり良い評判はなかったようです。
しかし、その俳句には彼の漂泊に姿が投影され、そんなに有名ではないにも関わらず、隠れた愛好者も多いようです。まあ、私もその一人かも知れません。
それでは斎部路通の句を幾つかご紹介します。
肌の良き 石に眠らん 花の山
この句には「嗚呼、いづれの時、いづれの里、いづれの狂人か、同じく此のむねをあはれまむ。つながれたる庵は主に返し、彼の鍋は人にうちくれて、身は笠ひとつのかげを頼みて、行衛なき方をそたのしみけり」という文が添えられています。先にお話しした芭蕉が奥の細道へ旅立つ直前に出て行った時に残されていた句だといいます。
肌の良き 石に眠らん 花の山
花見だ何だと人々は騒いでいるが、私はそんな派手なことは出来ぬし好みでもない。ただ、美しい花を愛でながら肌触りの良い石の上に横たわり、静かに眠りたいだけさ。
もし、そのまま眠りについたら、それは「花の下にてわれ死なん」と詠んだ西行の世界ですが、路通はそれを望んでいたようにも思えます。
火桶抱いて をとがい臍(ほぞ)をかくしける
これも私の好きな句です。恐らくは旅の途中の木賃宿でしょう。野に伏す暮らしが普通の斎部路通ですが、余りの寒さにたまたま宿に入ったのでしょうか。あるいは数少ない知人の俳句仲間の家かもしれません。
小さな火鉢に入った炭火を抱くように抱えています。おとがい、あごが自分の臍、ヘソを隠すほどに身体を丸めている姿。それはまるで世間というものを頑なに拒否して生きている俳人そのものの生き方をみるようです。
そして極め付け
いねいねと 人にいわれつ 年の暮
野良犬のように人々から追われ、世間から遠い場所で新しい年を迎えようとしています。
俳句といえば誰もが知っているのは松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」でしょう。街で百人の人に「あなたの知っている俳句を一つあげてください」と質問したら、この「古池や」の句が最も多くあげられるのは間違いないでしょう。しかし、正直なところ、私にはこの「古池や」の句のどこが良いのか、良く判りません。それに比べると、ここに取り上げた斎部路通の句は、妙に惹かれるものがあります。
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2008-11-07
まだ批判集会が開かれていた
この連載の8回目に「ズタズタにされた映画」と題して、映画監督・辻吉朗氏の「魂まで切る厳しい当局の検閲ぶり」と題した一文をご紹介し、昭和初期の検閲の実態を少しだけご紹介した。
では当時のマスコミ、特に放送はどうだったのだろう。今回は昭和4年11月15日朝刊の記事をご紹介しよう。
見出しは三段四行になっている。
「放送検閲の悩み 『余りに手厳しい、不統一だ…』と こんどは逓信当局へ非難 議会ニュースも一問題」
このころのこの種の記事によく見られるように、本文の中で三ヶ所ほど大きな活字が改行して囲みでゴシックが使われ、それが一種の中見出しになっている。それ以外に改行はない。本文は全部で59行、1行15字詰め。では本文をご紹介する。なお、仮名遣いと漢字は基本的に現在のものに変えている。また、本文中のゴシックは紙面でも改行となっている場所を示す。句読点は適宜、手を加えた。
舞台に上せる脚本の検閲が喧しくなってなって来た一面、今度はラジオ放送の検閲が問題になっている。ラジオの検閲は従来逓信省の手でやっているが、根が思想取締などには直接関係のない逓信局ののことだけに、今までにも相当手きびし過ぎたところへ、最近ますます厳重になる一方で、大阪放送局だけでもこの
一ヶ月 ほどの間に放送禁止になったラジオドラマが、高田保氏作「公園の午後」、砂田駒子一派がやることになっていた「夫が妻を騙した場合」、北村喜八氏作「山の喜劇」の三つ。このほか高田保氏作「勇士の一家」、中村吉蔵氏作「支那の女王」などはほとんど完膚なきまでに骨抜きにされ、このほか放送局の方でこれではとても放送出来ぬというので撤回したものがすくなくない。殊に面白いのは議会ニュースの放送で、東京、大阪、名古屋の三放送局には現在の日本放送協会として合併する前の三局分立時代に、「ラジオによる政治上の論議は一切まかりならぬ」という厳しいお達しが来ているのに、どうした手ぬかりか、後から出来た地方四局にはその命令が来ていなかったので、昨年など
前期の 三局では断片的な官報式のニュースしか放送出来なかったのに、熊本などでは電通のニュースを、始めから終わりまでどしどし放送して、ファンを喜ばせたというようなことがあり、大体東京で許されたものが大阪ではカットされ、大阪でカットされたものが地方の局で堂々と放送されているというような、検閲条の不統一がここにも見られるので、今年からは議会ニュースは全部お膝元の東京で検閲を受けたものを、全国に中継するようにしてはというので目下研究中である。ラジオは一定の劇場や会場で聞かせるものとは違って凡(あら)ゆる地方の凡ゆる階級のものの耳に入るのであるから、従って取締りを厳にせねばならぬとは逓信省側のいい分だが、
「白いうなじが気にかかる」という歌の
文句が 気にかかるとか、「軍国主義的精神」はいけぬが、英語で「ミリタリズム」にすれば許すというに至ってはあんまりではないかと、放送局側ではこぼしている。
こんな記事の中からも、当時のさまざまなことが浮かんできて面白い。
なお、この記事に続けて
「検閲制度の不当を叫ぶ 批判演説会」
という記事が掲載されているので、一緒にご紹介する。
大阪の検閲があまり過酷すぎるというので、その反省を促すため西下した文芸家協会の長田秀雄、新居格、金子洋文氏らは14日朝大阪府庁へ出かけ、蔵原警察部長と会見し陳情するところがあったが、同午後6時から中央公会堂で「検閲制度批判講演会」を開催した。大阪の山上貞一氏が「見物の一人として」火ぶたを切ったのを最初に、おくれ走せに飛行機で馳せつけた直木三十五氏は「映画検閲について」、大阪の豊岡(ママ)佐一郎氏は「新劇運動の希望」、新居格氏は「作家の死活問題」、金子洋文氏は「検閲の全国統一へ」、森田信義氏は「第三者は語る」などの題下で何れも熱弁を揮い、最後に長田秀雄氏が「検閲問題に関し大阪市民に訴ふ」と題してそれぞれ検閲の不当を鳴らし、直木氏などは「注意」を喰らったほどで、盛んにメートルをあげて場を埋めた二千に近い聴衆を熱狂させ盛況裡に午後8時半散会した。
如何だろう。昭和4年、1929年当時にはまだ検閲制度への抗議の声が上がっていたし、これが報道もされていた。記事の中にあるように、集会に監視のため入っていた官憲から「注意」の声が出されてはいるものの、集会そのものは市民の熱気に支えられた様子がうかがえる。ちなみに、小林多喜二の『蟹工船』が雑誌「戦旗」に掲載されたのはこの年、1929年。例の5・15事件が起き、日本が大きく舵を切るのはこの3年後の1932年のことだ。
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2008-11-06
催馬楽の「おかしみ」
今回は再び古代に戻って「催馬楽(さいばら)」からのご紹介です。催馬楽といっても、ほとんどの方には馴染みがないのではと思います。この種のものが割りと好きな方だと思っている私も、いままでに催馬楽が唄われているのを聴いた記憶はありません。神社などの奉納舞楽の席でも、唄われることはないようです。
催馬楽というのは、奈良時代末期から平安時代にかけて成立した流行歌だと思って下さい。催馬楽の起源はいろいろと言われていますが古い史料には催馬楽について
古(いにしへ)より今にいたるまで、習ひ伝へたるうたあり。
として、
催馬楽は、大蔵の省(つかさ)の国々の貢物おさめける民の口遊(くちずさみ)におこれり、
とあります。つまり国々から都、奈良・京都の大蔵省へ収めるための貢ぎ物を積んだ馬を曳いて歩く庶民が口ずさんだ歌、いわば民謡が起源だというわけです。
これに当時の宮廷で楽しまれていた雅楽、舞楽などと結びついて成立したものだという説が一番正しいと思います。
皆さんが時には耳にするだろう春日大社の祭礼などで奏でられる管弦や舞楽、雅楽は、いわば「外来音楽」が元になっていますが、「催馬楽」はその意味では純日本製、流行歌のルーツだと言えるかもしれません。
催馬楽は歌だけで舞いは付けられていません。題材もさまざまですが恋の歌などが多いようです。庶民によって作られ唄われ、伝えられただけに、あけすけで明るい歌が多く、他の宮廷音楽では考えられない農耕や土地の風物に題材をとったものがあり、中にはもし現代の言葉に直せば完全に放送倫理コードに抵触するような、性を謳歌した歌もあります。
一般的には歌の冒頭の部分は一人の歌い手が独唱し、途中からほかの歌手が入って合唱となり、これと同時に笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、琵琶などの楽器が加わります。
では、その中から、私が「にやり」とした歌を一首。
「桜人」と題されたこの歌は二つの部分からなっています。言うまでもなく男女の掛け合いです。
まず男性が歌います。
桜人 その舟止(ちぢ)め 島つ田(しまつだ)を 十町(とまち)つくれる
見て帰り来むや そよや 明日帰り来む そよや
桜というのは地名で、桜に住む人というのが一般的な解釈です。そよや、というのは囃子詞(はやしことば)だと思って下さい。
おーい 桜の人よ その船を止めてくれないか
島に田を十町ばかり作ってあるんでね、その船に乗せて もらって 島に渡ってその田を 見回って、そうだ 明日 帰ってこようと思うんだ
これに対して女性が歌います。
言(こと)をこそ 明日とも言わめ 遠方(おちかた)に
妻(つま)ざる夫(せな)は 明日も真(さね)来じや そよや さ明日も真来(さね こ)じや そよや
口先だけは明日帰るなんて言ってるけど、あっちに二号さんを囲っているあんただもんね。口先だけで決して明日帰ってきたりはしないよ、きっとそうですよ、ええ、帰ってきませんとも
田に行くなんて言って、どこの田を耕しに行くんだか。あんたのすること何ぞ、とっくにお見通しよ、という訳です。
先の万葉集もそうですが、どうも男性は女性に見透かされているようです。
しかし、そんな男にとってなんとも情けない歌が、延々と千年以上も歌い継がれてきたことに、私は日本文化の深さを見る思いがするのですが、いかがでしょうか。
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2008-11-05
愛児の死に寄せる悲涙 この連載のタイトルは「昭和ラプソディ〜笹爺の日本語への旅〜」だが、この原稿の元になっているのは、私がおしゃべりをしている「ならどっとFM」の番組「昭和ラプソディ」の中の、「美しき日本の歌〜珠玉の言霊を読む〜」という名前のコーナー。全体で約1時間のおしゃべり番組の後半の冒頭、約10分をこのコーナーに当てている。何を取り上げるか、正直なところ毎回が大変な作業。
それでも続けているのはこの番組を聴いてくださる方々に、日本語の持つ素晴らしさを少しでも伝えたいから。私のおしゃべりを通して、日本語について何かを考えて欲しいと願うからにほかならない。私たちが何気なく使っている日本語という言葉は、こんなにも素晴らしい韻律と広がりを持った言葉だということを感じて欲しい、ただそれだけのことだ。
ところで、近代の歌人がこのコーナーに登場したのは29回目の放送が始めて。理由は簡単で、私の知識不足。近代・現代の詩はそれなりに読んでいるつもりだが、近・現代の和歌・俳句についてはほとんど門外漢に近い。
そんな近代の歌人で始めて取り上げたのは石川啄木。
短歌にはあまり関心が無かった私だが、石川啄木の歌集は好きで、よく読んだ。
26歳という若さでこの世を去った啄木は、有名な二冊の歌集を出している。最初の歌集は明治43年(1910年)12月に東雲堂書店より出版された290ページの歌集『一握の砂』。その冒頭に掲げられた和歌は、発表されてから百年近く経った今でも、おそらくほとんどの方がご存知だろう。
東海の 小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたわむる
また 同じ歌集にある
たわむれに 母を背負いてそのあまり
軽きに泣きて 三歩あゆまず
はたらけど はたらけど 猶わが生活
楽にならざり ぢっと 手を見る
なども、よく知られた和歌だ。そして、これらの和歌はこれからも人々の心に語りかけ続けるだろう。
この歌集『一握の砂』には明治41年6月から明治43年までに作られた551首が収められ、「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」との題がつけられた五つの章に分けられている。先に挙げた三首はいずれも第一章の「我を愛する歌」に収録されたもの。
この歌集、『一握の砂』が啄木の生前に出された唯一の歌集で、もう一冊の有名な歌集、『悲しき玩具』は彼の死の二ヶ月後に出版された。
ところでこの啄木生前に出版された唯一の歌集は、彼の長男の出産費用捻出のために計画されたと言われてる。ところが、明治43年10月4日に誕生した長男の真一は、わずか二十日あまりを生きただけで、10月27日に亡くなってしまう。
啄木は編集中のこの『一握の砂』の最後に、長男の死を悔やむ歌、八首を収めて歌集を締めくくる。まさか、この歌集にそんな歌を収めることになろうとは、夢にも思わなかっただろう。
啄木は当時、東京朝日新聞に籍を置いていた。そして、仕事のために愛児の死に目に会うことが出来なかった。
夜遅く 勤め先より 帰り来て
今死にしてふ 児を抱けるかな
二三(ふたみ)声 いまわの際に 微かにも
泣きしといふに なみだ誘はる
底知れぬ 謎にむかひて あるごとし
死児のひたいに またも手をやる
悲しくも 夜明くるまでは 残りいぬ
息きれし児の 肌のぬくもり
これらの歌に解説は不必要だろう。
そこからは歌人・石川啄木のうめくような慟哭が聞こえてくる。
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2008-11-04
娯楽作品に入った検閲の手
昭和に入ってレコード(商品として通用する)が登場し、映画も無声映画の時代からトーキーになるなど、大衆娯楽の分野も大きく様変わりを始める。それとともに大衆に提供される作品への官憲による弾圧も強化されてゆく。さまざまな制限の下であったにせよ「大正デモクラシー」と謳われた時代は過去のものとなってゆく。
おそらくほとんどの方がご存知の渡辺はま子が歌った「忘れちゃ嫌よ」。昭和11年に発売されたこの曲は、すぐに発売禁止となった。理由は「あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる」というもの。当時は21歳、音楽学校出身で正統派の歌手だった渡辺はま子が、この歌のサビの部分がなかなか上手く歌えず、最後は泣きながら歌ってレコーディングのOKがやっと出たという、そのサビの部分が引っかかった。
すでに評判となっていたレコードを諦めきれなかったビクターが、「月が鏡であったなら」と改題し、最初の発売ではB面であったこの曲をA面に改めて発売、大ヒットとなったという。
ついでにこの年の暮れに渡辺はま子が大阪の大劇に出演した時の新聞記事をご紹介しよう。
見出しは
渡辺はま子 またお目玉 “忘れちゃ嫌よ”の甘い旋律を大劇で ウッかり唄って
という二段三行の見出し。
本文
「甘ったるいメロディーの流行歌『忘れちゃ嫌よ』のビクター専属歌手渡辺はま子さん(22)がまたも自慢の『忘れちゃ嫌よ』がたたってお灸をすゑられた再度の受難―
『忘れちゃ嫌よ』は去る六月下旬当局の忌諱に触れて全国的に禁ぜられたが当のはま子さんは三十一日から大阪千日前大劇に「五人組小唄競演大会」に出演してゐたが、一日観客に所望されるままに改訂版の『月が鏡であったなら』を唄うところを例の甘ったるいメロディーで禁ぜられている『忘れちゃいやんよ』と唄って観衆をうならせたが、忽ち島之内署の忌諱に触れ同夜十時大劇蒲生支配人とともに同署に召喚されて瀬川司法主任の取調べを受けたがメロディーがたたる再度の受難にさすがのはま子さんもしょげ返ってゐる」
(記事は三段)
なお、翌々日の新聞は渡辺はま子が出演禁止の処分を受けたことを報じている。何度となく官憲にいじめられたこともあって、渡辺はま子はこの『忘れちゃ嫌よ』が嫌いだったという。しかし、大衆はこの歌を支持しひそかに歌っていた。
レコードの方の発売禁止理由として最も多かったのが「お色気」だったようだが、映画はむしろ思想面(当時は「傾向映画」と呼んだ)が取り締まりの中心。
昭和5年の朝日新聞、「ニチヨウのページ」でこの「検閲」問題を取り上げている。その中の一つ、映画監督の辻吉朗氏の文章からご紹介しよう。辻吉朗氏は昭和初期の監督で大河内伝次郎や林長次郎(後の長谷川一夫)などの映画を撮っている。
文の見出しは「魂まで切る 厳しい当局の検閲ぶり」。
映画の検閲には内務省令によって公布せられた検閲法規といふものがある。例へばその第三条に「検閲官庁ハ前条ノ規定ニ依リ検閲ノ申請アリタル『フイルム』ニシテ公安・風俗又ハ保健上障害ナシト認ムルトキハ『フイルム』ニ検閲済ミノ検印ヲ押捺シ(以下略)」といふのがあるが、この条文の内容とするいはゆる公序良俗なるものが如何なるものなるかは漠としてその要領を得ない。
私の映画は比較的エロよりイデオロギーの方がより多くカットされるのであるが、私の主張の如何なる点が一体公序良俗に反するのであるか、自分として実に解釈に苦しむ場合が多いのである。
私の『傘張剣法』(日活・白黒無声映画。公開は昭和9年)の如きはその最も重要性のあるラストの場面をカットされて全く悲観したことを記憶している。同映画のラストは想三郎が主税を斬り捨てた後、長屋連中と共に貧乏人万歳を絶叫する場面になっている。
“人々よ生活が貧しいからとて卑下する必要は断じてない”
“さあ手を差し延べよう”
“正しき勝利のために” (以上画面文字)
そして貧乏人達は義憤と感激に思わず万歳を高唱するのである。貧乏人らしく雄々しく頼もしい姿ではないか。製作者のいはんとするところもここにある。だがこれらのタイトルと画面とは検閲官のいはゆる公序良俗に反するの故を以てバサリと切って落とされてゐるのである。
殊に検閲保留半歳の後漸くその憂目を免れた『維新暗流史』(昭和10年公開・日活。白黒無声映画。制作は昭和4年)第二編の如きはカット尺数実に600メートル。全長約1700メートルに比して三分の一以上のカットである。これでは何と諸君、解る写真も解らなくなるのが道理ではなかろうか。(以下略)
昭和初期の映画検閲実態の一部をかいま見る思いがする。私の放送でもこの文は紹介したのだが、同時に当時はまだこの文章が新聞紙上に掲載されていたということに注目したい。
ご承知のように「朝日新聞」など各紙が完全に右傾化し戦争賛美の側に回るのは昭和6年の「満州事変」がきっかけだが、この特集が組まれた昭和5年には、まだこんな記事が掲載されていたし、映画人の嘆きが人々につたえられていた。
2008-11-03
こんな凄い詩を書いた人がいました 私がさまざまな詩人たちとの出逢いに心を躍らせたのは高校の二年生の頃だったと記憶している。病弱で引き籠もりがちだった当時の私にとって、詩人たちの紡ぐさまざまな言葉との出逢いは何よりの心躍る贈り物だった。
昭和28年から発行された創元社の「現代日本詩人全集」。一冊450円のこの本は当時の我が家にとってあまりにも高価で、全集の中の一冊、私の好きな詩人の掲載された本だけを無理に頼んで買ってもらったのだが、その一冊が今も私の本棚に残っている。
ザラ紙のような黄ばんだお粗末な紙に印刷された詩。そこに載せられた金子光晴、吉田一穂、安西冬衛、北川冬彦などの詩を、それこそ宝物のようにして、繰り返し読んだ記憶がある。
さらに言えば、そこに載せられた金子光晴の詩集、「蛾」や「鬼の児の唄」などは、その後の私の生き方にも大きな影を落としているようだ。
今回、「昭和ラプソディ」の中で「美しき日本の歌」のコーナーをするために、これらの詩人たちの本が久しぶりに私の机に戻ってきた。
その私が愛読した金子光晴の作品からご紹介しよう。
1895年、明治28年に愛知県で生まれた金子光晴。若い頃にはいくつもの大学を中退した揚げ句、亡くなった父の遺産を手にヨーロッパに渡り、その遺産を食い尽くして帰国。さらにまた、当時女子大生だった女性と、今で言う「出来ちゃった結婚」をして再び一緒にヨーロッパに渡りアルバイトで食いつなぎながら各地を転々と放浪するという、言わば典型的な無頼の人生を送った人。1975年、昭和50年に80歳で亡くなるのだが、その詩はかっての私にとってバイブルに等しい一冊だった。
金子光晴の晩年の著書に『絶望の精神史』という本がある。この本は金子光晴の一種の自伝だが、その終わりの方で彼は次のように書いている。「日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか」。そしてさらに「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」と書いている。まさにその通りで、「国を守る」という尤もらしい理由の下で多くの人が死んで行ったし、今も死んでいる。
「骸は適当に始末して、骨は小さな壺に入れて埋葬してください」と遺言した彼の墓碑は、八王子市上川霊園九十九折りの坂道を登った狭い台地の一隅にあるという。
今日ご紹介する詩は、あの戦争中に金子光晴が書き溜め、戦後になって昭和23年、1947年に出版された詩集『蛾』に収められた「三人」と題する三篇の詩のうち、「富士」、「戦争」の二つの詩。全体の題となっている「三人」は、詩人その人とその妻、子供の三人のこと。この詩は昭和20年2月、つまり戦争中にに書かれている。そしてこの三篇の詩には、それぞれ「子供の徴兵検査の日に」、「富士」、「戦争」という副題がある。つまり自分の子供が、これから兵隊にとられることを前提とする身体検査が行なわれた日に詠まれた詩。
富 士
重箱のやうに
狭つくるしいこの日本。
すみからすみまでみみつちく
俺達は数へあげられてゐるのだ。
そして、失礼千万にも
俺達を招集しやがるんだ。
戸籍簿よ。早く焼けてしまへ。
誰も、俺の息子をおぼえてるな。
息子よ。
この手のひらにもみこまれてゐろ。
帽子のうらへ一時、 消えてゐろ。
父と母とは、裾野の宿で
一晩ぢう、そのことを話した。
裾野の枯林をぬらして
小枝をピシピシ折るやうな音を立てて
夜どほし、雨が降ってゐた。
息子よ。ずぶぬれになったお前が
重たい銃を曳きずりながら、喘ぎながら
自失したやうにあるいてゐる。それはどこだ?
どこだかわからない。が、そのお前を
父と母とがあてどなくさがしに出る
そんな夢ばかりのいやな一夜が
長い、不安な夜がやっと明ける。
雨はやんでゐる。
息子のゐないうつろな空に
なんだ。糞面白くもない
あらひざらした浴衣のやうな
富士。
戦 争
千度も僕は考へこんだ。
一億とよばれる抵抗のなかで
「何が戦争なのだらう?」
戦争とは、たえまなく血が流れ出ることだ。
その流れた血が、むなしく
地にすひこまれてしまふことだ。
僕のしらないあひだに。僕の血のつづきが。
敵も、味方もおなじやうに、
「かたなければ。」と必死になることだ。
鉄びんや、橋のらんかんもつぶして
大砲や、軍艦に鋳直されることだ。
反省したり、味つたりするのは止めて
瓦を作るやうに型にはめて、人間を戦力としておくりだすことだ。
十九の子供も。
五十の父親も。
十九の子供も。
五十の父親も。
一つの命令に服従して、
左をむき
右をむき
一つの標的にひき金をひく。
敵の父親や
敵の子供については
考える必要は毛頭ない。
それは、敵なのだから
そして、戦争の考へるところによると、
戦争よりこの世に立派なことはないのだ。
戦争より健全な行動はなく、
軍隊よりあかるい生活はなく、
また戦死より名誉なことはない。
子供よ。まことにうれしいぢやないか。
互ひにこの戦争に生れあわせたことは。
十九の子供も
五十の父親も
おなじおしきせをきて
おなじ軍歌をうたつて
いかがだろうか。あの暗い時代、ほとんどの日本人が「神州不滅」を信じ、「天皇万歳」を叫んでいたあの時代に、こんな心の叫びを詩に書いていた人がいたということを、私たちはもっと誇りにしていい、と私は思っている。
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ジャンル : 学問・文化・芸術
2008-11-02
新聞に始めて登場した阪神タイガース ジャーナリスト・ネットの会員や読者の中にも「阪神タイガース」のファンが結構多いらしい。そんな阪神ファンにとっては今年、2008年の前半戦は久しぶりに気楽な気持ちでナイター観賞が楽しめるシーズンだった。後半のいささかのだらしなさも、まあ、いかにも阪神という気がしないでもない。
かく申す私も阪神ファンの一人。もっとも私の先輩には戦前からの「阪神びいき」で、いまだに阪神が敗けた日は機嫌が悪いというという人がいる。その人に言わせると、別当の入団以降にファンとなった私などはまだ駆け出しの阪神ファンらしい。それでも、若林や御園生、呉、藤村、別当、土井垣が活躍していた時代からのファンだからまあ古い方だろう。
もちろんアンチ巨人。阪神とライバル関係にあるというだけでなく、アンチ渡辺・アンチ讀売・アンチ長島でもある。あれは長嶋茂雄が巨人「軍」に入団してすぐのころ、総選挙があって、そのことについて質問された長島が「社会党が選挙に勝てばプロ野球が無くなるから自民党を応援する」という意味の発言をしたことがある。以後、長嶋が嫌いになった。何とも古い話だが、人間の好悪感なんて、そんな簡単なことで決まるのだろう。
ところで今日お届けするのはその「阪神タイガース」の新聞初登場の記事。何かの話の種にしていただければ幸いだ。
阪神球団の公式サイトによれば、1935年10月1日に会社設立準備委員会が発足し、12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」を創立、翌年の2月11日にチームを結成、4月19日にタイガース結成記念試合が行なわれた、とある。
新聞記事でご紹介しよう。昭和10年12月11日朝日新聞スポーツ欄。見出しは2段
関西に職業チーム 大阪野球倶楽部生る
(本文)野球界の話題として噂とりどりだった関西における職業野球チームは10日午後4時阪神事務所でその設立が発表された。会社は株式会社大阪野球倶楽部と称し本社を大阪北区中之島江商ビル4階に置き資本金は二十万円で取締役会長に松方正雄氏、専務取締役に富樫興一氏、チーム監督に森茂雄氏が就任することとなった。
(以上本文改行なしで10行ー以下、1字下げ)
選手は現在内定せるもの中等学校選手8名、大学選手4名であるがその氏名はそれそれ卒業期を待って発表するとのことで発表期までには約20名の選手を揃える予定であると、従ってチームの活動も4月以降と見られてゐる。
以上の記事が阪神が新聞に初めて登場した時のもの。続いて翌年の昭和11年4月15日。スポーツ欄で見出しは1段で4行。
大阪タイガース 初陣披露試合 金鯱、セネタースを迎えて
(本文)職業野球団大阪タイガースは19日甲子園で東京セネタース、名古屋金鯱軍の両チームを迎え初陣披露試合を挙行する。
正午からタイガース対セネタース、2時半からタイガース対金鯱軍の2試合を行なうが更に21日には神戸市民運動場でタイガース対セネタース第二回試合、22日には明石公園球場で第三回試合をそれぞれ午後3時半から挙行する。(以上11行)。
この記事のすぐ横には、3段見出しで、「スケート大会開く 悦ちゃんも妙技を描く」として、このころ人気のあった「氷上の豆女王稲田悦子嬢」を迎えての記事が大きく掲載されている。
タイガースの記事の上は、駅伝と大学野球の記事で埋まり、まだプロ野球はほとんど関心を持たれていない様子がうかがえる。当時の新聞はプロ野球への関心があまり見られない。『野球界』という雑誌も発行されているが、ほとんどは大学野球や中等学校野球(現在の高校野球)の記事で埋まっている。
テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術
2008-11-01
歌詞の意味が判らない? 「美しき日本の歌」のコーナーでは短歌や俳句だけではなく現代詩やさまざまな歌の歌詞なども取り上げる。この日は番組の中で使った唱歌、「夏は来ぬ」の歌詞を取り上げた。以下はその放送原稿。
先日テレビのクイズ番組で、童謡「赤とんぼ」の歌詞にある「おわれて見たのはいつの日か」という部分の「おわれて」の意味を問う問題に、「追いかけられて」という意味だと答えたタレントが何人かいた。もちろん正解は「背負われて」。
「赤とんぼ」のような比較的やさしい歌詞でさえ意味を間違ってとらえられているとすれば、古い小学唱歌、特に文語体の歌詞を持つ歌の多くは、今の人にはほとんど理解できなくなっているのかもしれない。
例えば明治29年(1896)に発行された小学5年生用の「教育唱歌」に掲載された佐々木信綱作詞、小山作之助作曲の「夏は来ぬ」。美しい、私の好きな曲の一つだが、歌詞は結構難しい。
この歌の歌詞は5番まであり、1番から4番まで、初夏のさまざまな風景が詠まれ、それを5番でまとめている。
1番から見てゆこう。
卯(う)の花の匂う 垣根(かきね)に
時鳥(ほととぎす) 早(はや)も来(き)鳴きて
忍(しの)び音(ね)もらす 夏は来(き)ぬ
卯の花とは空木(ウツギ)のこと。ホトトギスとともに日本の初夏を代表する風物で、白い花が咲き乱れることから雪や波にも喩えられ、夏雪草などの異名もある。そのウツギの花だが匂いはほとんどない。では「卯の花の匂う垣根」の意味は?ここでいう匂うとは、香がするという意味ではなく、照り映える、という意味の言葉の古い使い方。また卯の花が咲くころは梅雨の長雨が続くことが多く、五月雨のことを「卯の花腐し(うのはなくだし)」という美しい言葉で表す場合もある。
時鳥はカッコウ科の鳥。「忍び音」というのは、まだ充分に鳴くことの出来ない巣立ったばかりの若鳥が小さな声で鳴く様子を示している。
そして2番
五月雨(さみだれ)の 注(そそ)ぐ山田に
早乙女(さおとめ)が裳裾(もすそ)濡(ぬ)らして
玉苗(たまなえ)植(う)うる 夏は来ぬ
五月雨は陰暦の五月に降る雨のことで今の暦では六月に当たる。六月に降る長雨、つまり梅雨のこと。早乙女というのは田植えに働く女性の総称で、別に若い女性を意味しているわけではない。
小林一茶に「早乙女や子の泣く方へ植えてゆく」という句がある。田のあぜに赤ん坊を寝かせて田植えに励んでいると、その子が泣き出した。お乳が欲しいのか、足は自然に泣き声の方に動いてゆく。その母心の情景が目に浮かぶようだ。そう言えば「うかれ女も 早乙女となる 神事かな」という句もある。うかれ女、つまりは遊女。田植え神事には遊女までも動員されていたのだろうか。
裳裾は着物の裾。玉苗の玉は美称で、稲の苗を大切にする心根が感じられる言葉。
この2番の歌詞は、『栄花物語』にある「五月雨に裳裾濡らして植うる田を 君が千歳のみまくさにせむ」という和歌が下敷きとなっているとされている。みまくさというのは「稲」のこと。
そして3番の歌詞
橘(たちばな)の薫(かお)る 軒端(のきば)の
窓近く 蛍(ほたる)飛び交(か)い
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ
橘というのはミカンの木の古称。梅雨、そろそろ蛍が出る季節。このフレーズでは中国の故事、「蛍雪の功」がイメージされているというのが定説。おこたり諌むる、は怠けているのを諭し励ます、という意味。
この3番の歌詞も「橘のにほへる香かも ほととぎす鳴く夜の雨に 移ろいぬらむ」という万葉集の和歌が下敷きとなっていると言われている。
4番の歌詞は
楝(おうち)散る 川辺(かわべ)の宿の
門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ
楝というのはセンダンの木の古名。落葉樹でその実は漢方薬としても使われる。河辺の宿は別に旅館のことではなく普通の家。水鶏はクイナ科に属する夏鳥の総称で約130種類もあり、その多くは夜行性で、夕方から夜にかけて活発に行動する鳥のこと。
そして最後の5番
五月闇(さつきやみ) 蛍飛び交い
水鶏鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ
五月闇というのは梅雨時の夜の闇を表す言葉で、この頃、最も夜が暗いと言われる。深い闇を飛ぶ蛍、そして卯の花と、1番から4番までの情景を改めて並べて、締めくくっている。
さすがに国文学者として知られた佐々木信綱の作詞だけに、難しい。だがその歌の言葉の意味がわからなくとも、人々に愛唱される。それはこの歌詞の言葉が五音・七音構成になっていることにも原因があるのだろう。やはりこの音感は私たち日本人の感覚にピッタリとするようだ。
テーマ : 日本文化
ジャンル : 学問・文化・芸術